なりさん戦国時代の武将は全て手紙は読めてたんですか?
また、標準語みたいなものはあったのですか?
今より方言がきつそうに思うので、文章にも方言が出ると字が読めても意味がわからないのでは?
結論からいうと、「武将なら全員が自由に読み書きできた」わけではありません。そして、話し言葉には強烈な地域差があった一方、手紙には地域を越えて通じる共通の「書き言葉」がありました。 これが重要です。
武将本人が全部書いていたわけではない
戦国大名クラスになると、公式な手紙は本人が書くとは限りません。むしろ「右筆(ゆうひつ)」という書記役が文章を書き、武将本人は最後に花押、つまりサインを入れるという形が一般的でした。福岡市博物館も、高位の武士の公文書の大半は右筆書きだったと説明しています。
だから、
「織田信長から手紙が来た」
=
「信長が筆を持って全部書いた」
ではありません。
一方で信長、秀吉、家康などには自筆書状も残っています。特に身近な人への私信では本人が書くことがありました。
なので識字能力にも当然個人差があったでしょうが、少なくとも大名やその側近層では、自分で読んだり、右筆に読ませたり書かせたりして文書を扱う仕組みが確立していたと考えるのが近いです。
では薩摩の武将と東北の武将は手紙で通じたのか
ここが、疑問の核心だと思います。
通じました。
なぜなら、手紙は普段しゃべっている言葉をそのまま文字にしたものではなかったからです。
現代でたとえるなら、
「せやけど、そんなん知らんがな」
と普段しゃべっている大阪の人でも、仕事のメールなら、
「しかし、その件については承知しておりません」
と書きますよね。
戦国時代はこれがもっと極端だったと考えると分かりやすいです。
公的な文書や武家の書状には、漢文の影響を強く受けた一定の書式・文体・定型表現がありました。女性宛てなどでは仮名中心の書状もあり、例えば信長がおねに送った有名な手紙は、ほぼ全文が仮名です。
つまり、
「話し言葉の共通語」と「書き言葉の共通ルール」は別物だった
わけです。
では「標準語」はあったのか
現在のような全国共通の「標準語」はありません。
ただし、中央の文化的な言葉、特に京都の言葉には強い影響力がありました。
国立国語研究所によると、戦国時代にあたる室町時代後半の日本語は、古代語から近代語へ大きく変化している途中でした。当時の話し言葉をかなり正確に記録した資料として、1593年の『天草版伊曽保物語』などが残っています。
そして面白いのは、現代人がこれを読むと、
「意外と分かる。でも、かなり変」
という日本語なんです。
つまり戦国時代の日本語は、平安時代の古文ほど遠くはありません。
ただし「会話」になると話は別
会話は想像どおり、こっちはかなり大変だったと思います。
たとえば薩摩、東北、北陸、京都などでは発音や語彙にかなり地域差がありました。しかも録音が残っていないので、16世紀の各地方の発音を完全に復元することはできません。
ですから、
薩摩の下級武士と東北の農民が突然会って、それぞれ地元の言葉全開でしゃべったら、かなり意思疎通に苦労した可能性があります。
ところが大名や外交を担当する武士、僧侶、公家、商人などは地域を越えて移動します。そのため、相手に合わせた言葉や中央寄りの言葉を使う能力も必要だったと考えられます。
ここが面白いですよね。
口では「何言うてんねん、この人」となるのに、手紙にすると通じる。
現代とは逆に、書き言葉のほうが地域差を吸収する役割が大きかったわけです。
そしてもう一つ面白い疑問が出てきます。
「信長と伊達政宗が実際に対面して、それぞれ地元の言葉でしゃべったら普通に会話できたのか?」
これを調べると、戦国時代の「標準語」がもう少し具体的に見えてきます。
参考資料
福岡市博物館「武人の書」
戦国武将の手紙について、「身分の高い武士は右筆が書き、本人は花押を加えることが多かった」という部分の根拠になります。秀吉などの自筆書状についても紹介されています。
福岡市博物館「武人の書」
国立国語研究所「現代の高校生が戦国時代にタイムスリップしたら、言葉は通じますか」
これは今回の記事にかなりピッタリです。室町時代後半の話し言葉が現代語とどのくらい違ったのか、『天草版伊曽保物語』を例に解説しています。
国立国語研究所「現代の高校生が戦国時代にタイムスリップしたら、言葉は通じますか」
国立国語研究所「天草版伊曽保物語」
1593年刊行の資料そのものです。ローマ字翻字と漢字仮名翻字が公開されているので、「戦国時代末期の日本語って実際どんな感じ?」を読者自身が確認できます。
国立国語研究所「天草版伊曽保物語」

