江戸時代の農村について調べていて、素朴な疑問が浮かびました。
田んぼで米を作っているのは農民です。
ところが、その農民たちは毎日白いご飯を食べていたわけではありません。
麦や粟、稗などの雑穀を食べ、米は年貢として納めたり、商品として売ったりする。
一方、その米が運ばれていった江戸では、町人や職人たちが白いご飯を食べていました。
だったら農民は思わなかったのでしょうか。
「その米、俺たちが作ったんやけど」
「なんで作ってる俺らが麦を食べて、江戸の人間が白い飯を食べてるんや」
今回は、そんな疑問から江戸時代の農民の食生活を調べてみました。
本当に農民は米を食べていなかったのか
まず、「江戸時代の農民は米を食べられなかった」という話。
これは地域や時代、農家の経済力によって大きな差があるので、すべての農民についてそうだったとは言えません。
ただ、米だけの飯を毎日のように食べる生活が一般的ではなかった農村があったことは、資料から確認できます。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでは、江戸時代の農村では雑穀や野菜などを混ぜた「糅飯」が食べられたことや、1830年ごろの信濃国伊那郡の村では、大麦、蕎麦、米、大根、稗などを組み合わせて食べていた例が紹介されています。
ここまでは、なんとなく想像できます。
ところが、もっと驚く記録がありました。
米を食べるのは「年間26日」
元禄前後、紀州紀ノ川沿いの農村について記された『地方の聞書』という資料があります。
そこには、
「正月五節句盆神事、年中二十六日米給申候」
という記述があります。
簡単にいえば、正月や節句、盆、神事など、一年のうち26日ほど米を食べるという話です。
しかも、これは米をほとんど作っていない貧しい家の話ではありません。
紹介されている農家は、田二町、畑五反、石高31石という、当時としてはかなり大きな経営でした。
年貢を納めたあとも米は残っています。
ところが、その米を全部自分たちで食べるわけではありません。
米や雑穀の多くを売り、家で日常的に食べるものとしては大麦や黍などを確保していました。
ここが面白いところです。
「年貢で全部取られたから米が食べられなかった」
だけではないのです。
米は食べ物である前に「売れる商品」だった
農民にとって米はもちろん食べ物です。
しかし同時に、とても価値の高い商品でもありました。
米を売れば現金になります。
生活には現金も必要です。
農具もいる。
衣類もいる。
塩など自分の村だけでは手に入らないものも買わなければならない。
だったら、高く売れる米を自分たちで食べてしまうより、米を売って、日常の主食には麦や雑穀を使う。
これは貧しさだけではなく、農家の経営として合理的な選択でもあったわけです。
実際、江戸時代の下野国を研究した論文では、17世紀後半以降、農民は年貢や自家消費だけでなく、商品として販売するためにも米を生産するようになったことが指摘されています。
その米は江戸をはじめ、城下町、村、河岸、山村など広い地域へ流通していました。
つまり農民は、
「自分たちが食べる米を町人に取られている」
だけではなく、
「町で売れる商品を生産している」
という側面も持っていたのです。
その米を江戸では白くして食べる
そして江戸。
こちらでは農村とはかなり違う食文化が発達しました。
白米です。
精米した白い米を食べることが江戸では広まりました。
あまりにも白米中心の食生活になったため、ビタミンB1不足による脚気が多発します。
地方から江戸へ来ると発症し、故郷へ帰ると改善する人もいたため、脚気は「江戸患い」とまで呼ばれました。農林水産省も、江戸時代に白米食が広がり、とくに江戸で脚気が多かったことを紹介しています。
農村では麦や雑穀を食べている。
江戸では白米を食べすぎて病気になる。
なんとも皮肉な話です。
そりゃ農民は腹が立ったんじゃないの?
ここで最初の疑問に戻ります。
自分たちが作った米を売ったり年貢として納めたりして、自分たちは麦や雑穀を食べる。
その米が江戸へ行けば、町人や職人が白米として食べる。
農民は、
「ふざけんなよ」
と思わなかったのでしょうか。
当然、そう感じた人が一人もいなかったとは考えにくいでしょう。
ただし、ここからが歴史を調べる面白いところです。
「農民は江戸の町人が白米を食べることに怒っていた」
という形で、農民全体の感情を示す史料は、今回調べた範囲では確認できませんでした。
逆に、農民たちが何に怒っていたのかは史料に残っています。
実際に農民が怒っていたこと
例えば福井県史には、享保9年(1724年)に丸岡藩領の百姓たちが19か条にわたる要求を出した記録が紹介されています。
そこに出てくるのは、
年貢に関する要求。
人足負担の軽減。
藩から借りた金の利息。
役人への不満。
代官が村を回る際の接待負担。
などです。
かなり具体的です。
つまり、
「江戸の連中ばっかり白い飯食いやがって」
ではない。
「俺たちの負担を何とかしてくれ」
なんですね。
百姓一揆そのものも、一般には領主や代官の政治、過重な年貢などに対する集団的な抵抗として説明されています。
もちろん江戸時代は260年以上あります。
地域も全国に広がっています。
農民の感情を一つにまとめることはできません。
それでも、残された要求を見る限り、怒りの矛先は「米を食べている町人」より、自分たちの生活を直接苦しくしている制度や負担に向いていたように見えます。
町人は「米を奪う人」ではなく「米を買う人」でもある
ここでもう一つ、現代の感覚を外してみる必要があります。
農民にとって江戸の町人は、自分たちの米を食べてしまう敵なのでしょうか。
商品として考えれば、むしろ逆です。
米を買ってくれるお客さんです。
江戸という巨大な消費地がある。
大量の米を食べる人がいる。
だから米が商品として売れる。
下野国の研究でも、江戸を含む広域市場へ米が販売されていたことが確認されています。
そう考えると、
農民対町人
という単純な対立ではなくなります。
農村が作る。
都市が買う。
商人が運ぶ。
領主が年貢を取る。
米価が動く。
その全部がつながっています。
なんだか現代にも似ている
ここまで調べていて、少し現代にも似ていると思いました。
高級な果物を作っている農家が、その果物を毎日食べているとは限りません。
高級魚を獲る漁師が、それを毎晩食卓に並べるわけでもありません。
高価なものほど、
「自分で消費するより売った方がいい」
ということがあります。
江戸時代の米も、それに近い面があったのでしょう。
自分たちが作った米を自分たちが食べず、都市の人が食べる。
現代人から見ると不公平にも見えます。
しかし農民からすれば、
米は主食であると同時に、税であり、商品であり、現金を得るための重要な財産でもあった。
そう考えると見え方が変わってきます。
結局、農民は腹が立たなかったのか?
今回調べた範囲で答えるなら、
腹を立てた人は当然いたでしょう。しかし、「自分たちが作った米を町人が食べていること」そのものが農民全体の怒りの対象だった、とは確認できませんでした。
むしろ史料に残っているのは、
年貢が重い。
負担が多い。
借金が苦しい。
役人のやり方がおかしい。
生活できない。
という、もっと切実で具体的な不満です。
そして、ここが今回一番意外でした。
農民は単に、
「米を作っているのに米を食べられない可哀想な人」
だったわけではありません。
米を作り、
年貢を納め、
米を売り、
その金で生活を成り立たせる。
農民自身も市場経済の中で動いていたのです。
そう考えると、
「俺たちが作った米を江戸の連中が食べやがって」
という現代人が想像する怒りより、
「米は高く売れてくれ。でも年貢と負担は勘弁してくれ」
という方が、当時の農民の生活には近かったのかもしれません。
もちろん、最後の一文は史料に書かれた農民の言葉ではありません。
でも、残された記録を追っていくと、そんな農民の姿が少し見えてくる気がします。
参考文献・参考資料
国立国会図書館 レファレンス協同データベース「百姓が年貢を納める以外に米を売っていたことがあるのか」
紀州の『地方の聞書』などをもとに、年貢後の米を農民が販売し、日常食には麦や黍などを用いていた事例が紹介されています。
国立国会図書館 レファレンス協同データベース「江戸時代の一般の人々の食事内容について」
有薗正一郎『近世庶民の日常食 百姓は米を食べられなかったか』など、江戸時代の農民・庶民の食生活を調べるための研究書が紹介されています。
国立国会図書館「江戸時代北関東における食と農」
下野国を事例として、農民が自家消費や年貢だけでなく、商品として販売する目的でも米を生産していたことを論じた研究です。
福井県文書館「福井県史 通史編4 近世二」
享保期の百姓による訴えについて、年貢、人足、借金、役人など具体的な要求内容を確認できます。
農林水産省「米とビタミンB1」
江戸時代に白米食が広まり、とくに江戸で脚気が多発して「江戸患い」と呼ばれたことが解説されています。

