信長と伊達政宗が会ったら、普通に会話できたのか? 戦国武将と方言の話

織田信長と伊達政宗が向かい合い、それぞれの方言で会話が通じるのかを表現した戦国時代のイラスト

織田信長と伊達政宗。

戦国時代を代表する二人の武将ですが、実は二人が直接会った記録はありません。

政宗が生まれたのは1567年。信長が本能寺の変で亡くなった1582年には、政宗はまだ15歳でした。政宗が伊達家の家督を継ぐのは、その2年後の1584年です。

では、ちょっと歴史を横に置いて想像してみましょう。

もし織田信長と伊達政宗が同じ部屋に座り、それぞれが地元の言葉で話し始めたら、普通に会話できたのでしょうか。

現代のドラマなら、

「政宗、そなたはどう考える」

「はっ。拙者も同意にございます」

くらいで普通に会話が進みます。

しかし実際には、そう簡単ではなかったかもしれません。

信長は尾張、政宗は奥州

信長が育ったのは尾張です。

当然ながら、当時の尾張にもその土地特有の言葉がありました。

しかも興味深い記録があります。

信長が京都へ進出したあと、京都の言葉そのものが尾張の言葉の影響を受けたという記録です。

名古屋市が紹介している江戸時代の文献には、信長の上洛以降、京都の人々の言葉遣いが変わり、さらに信長、秀吉と尾張出身の権力者が続いたことで、京都の言葉に尾張方言が混ざったという趣旨の記述があります。

つまり信長は、単に「地方から京都へ来た武将」ではありません。

その地方出身者たちが大量に中央へ進出することで、中央の言葉にも影響を与えた可能性があるのです。

一方、政宗が育ったのは現在の東北地方。

現代の仙台方言でさえ、「よく」が「よぐ」のようになるなど、発音に共通語との違いがあります。もちろん現代の仙台方言をそのまま16世紀の政宗の言葉と考えることはできませんが、東北地方にも古くから地域的な言葉の違いがあったことは考えておく必要があります。

「標準語」はまだない

現代の日本人なら、普段は関西弁を話している人でも、北海道や東北の人と話すときには、ある程度共通語に寄せられます。

テレビ、学校教育、インターネットなどを通じて、全国の人が共通語を知っているからです。

戦国時代には、この意味での標準語はありません。

しかも当時の日本語そのものが、古代の日本語から現在につながる日本語へ変化している途中でした。

国立国語研究所は、室町時代後半について「古代語らしさが薄れ、近代語的な様相を濃くしていく過渡期」と説明しています。

だから、

「信長は名古屋弁、政宗は仙台弁」

と現代の方言をそのまま当てはめるのも正確ではありません。

二人とも、私たちが現在耳にする名古屋弁や仙台弁とは違う日本語を話していたはずです。

では、会話は成立しなかったのか

ここがおそらく一番面白いところです。

「地元の人同士で話すような言葉を全開にすれば苦労したかもしれない。しかし、武将同士の公式な会談なら、かなり意思疎通できた可能性がある」

と考えるのが自然だと思います。

戦国武将は、自分の村から一歩も出ない生活をしていた人たちではありません。

使者が行き交い、京都との関係を持ち、僧侶や公家、商人など地域を越えて移動する人々とも接します。

特に大名クラスともなれば、相手に通じるように話す必要があります。

現代でいう「標準語」とまではいかなくても、中央である京都の言葉や、広い地域で理解されやすい言葉に寄せることは十分考えられます。

つまり、

「お互い地元の言葉しか知らない二人」

ではなかったはずです。

それでも困ったら、文字がある

話して分かりにくくても、書けば通じる可能性が高くなります。

戦国時代の書状は、話した言葉をそのまま文字にしたものではありません。

武家社会には一定の文書形式や書き言葉がありました。

現代でも、

「そんなん聞いてへんで」

と普段話している大阪の人が、取引先へのメールでは、

「その件については伺っておりません」

と書きます。

これと少し似ています。

地域によって話し言葉が違っても、書き言葉には地域差を越える機能があったわけです。

実は「聞き取れる」と「意味が分かる」も別

さらに考えてみると、方言の問題には二段階あります。

一つは発音。

もう一つは単語や言い回しです。

同じ単語でも発音が違えば聞き取れませんし、聞き取れても、その地域独特の単語なら意味が分かりません。

これは現代でもあります。

関西の人同士なら普通に、

「それ、なおしといて」

と言います。

でも地域によっては、

「何を修理するの?」

となる。

「なおす」が「片付ける」という意味で通じないからです。

戦国時代には、こうした違いが今より大きかった可能性があります。

だから信長と政宗が地元の言葉を早口でしゃべり続ければ、

「日本語なのは分かる。でも、ところどころ何を言っているのか分からない」

という状態になったとしても不思議ではありません。

それでも戦国武将たちは全国を動いた

ここが個人的には一番興味深いところです。

電話もない。

録音もない。

学校で全国共通の日本語を習うこともない。

テレビもラジオもない。

それでも人は京都へ行き、使者を送り、手紙を書き、商売をし、婚姻を結び、同盟を結び、時には遠く離れた大名同士で交渉していました。

言葉が違うから交流できなかったのではなく、

違うからこそ、通じる話し方や書き方が発達した。

そう考えると、戦国時代の「ことば」は、合戦や城とはまた違った面白さがあります。

ちなみに信長自身は政宗とは会っていませんが、政宗の父・伊達輝宗とは書状をやり取りしています。

信長から輝宗へ送られた書状も残されています。

尾張から天下を目指す信長と、遠く離れた奥州の伊達家。

直接会わなくても、文字なら政治的なコミュニケーションが成立していた。

これこそ、戦国時代の「ことば」を考えるうえで象徴的な話なのかもしれません。

参考資料

国立国語研究所「現代の高校生が戦国時代にタイムスリップしたら、言葉は通じますか」
今回の記事の中心資料にできます。室町時代後半の話し言葉、『天草版伊曽保物語』、京都を中心とした上方の言葉などを解説しています。国語研は、当時の人と現代人でも直接の対話ならある程度意思疎通できる可能性を指摘しています。
国立国語研究所「現代の高校生が戦国時代にタイムスリップしたら、言葉は通じますか」

名古屋市「昔の名古屋の『ことば』は?」
信長・秀吉の上洛に伴って、尾張の言葉が京都の言葉にも混じるようになったという史料を紹介しています。「信長が実際にどんな言葉を使っていたのか」を考える材料として面白いです。
名古屋市「昔の名古屋の『ことば』は?」

仙台市博物館「年表で見る伊達政宗の一生」
政宗は1567年生まれで、1582年の信長死去時は16歳、家督相続は1584年。この年表から、信長と政宗が武将同士として実際に対面したという設定ではなく、「もし会っていたら」という仮定の記事であることを確認できます。
仙台市博物館「年表で見る伊達政宗の一生」

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