江戸・船頭の一日|川が道で、風が友だった

江戸時代の隅田川で櫓を漕ぐ船頭の後ろ姿。 江戸時代、男性1人、櫓、舟、川、空、雲、遠景に橋

水の都・江戸を流れる川を行き来し、人と荷と、時には運命までも運んだ男たちの物語。


■ 夜明け ― 水面の音

夜明け前、隅田川はまだ霧の中に眠っている。
その静けさを破るように、船底を叩く音が響く。
「おう、今日も風は悪くねぇな」
船頭の男は、裸足で舟に乗り込み、櫓(ろ)を握る。

水の匂いと潮の香りが混じる。
川は今日も、江戸の命を運ぶ道。
魚荷、米俵、木材、人、恋文。
あらゆるものがこの川を渡り、男の手と風の向きで行き先を変える。


■ 朝 ― 江戸の水路を駆ける

太陽が昇ると、舟は忙しく動き始める。
「おい、荷は軽いぞ、二丁先の橋までだ!」
櫓が水を切る。水飛沫が朝日にきらめく。

船頭は地図を持たない。
風を読む。潮を読む。水の流れを読む。
それが江戸の船頭の“羅針盤”。

川辺の茶屋から声がかかる。
「おい船頭、こっち頼む!」
「へい、今行くよ!」
川の上には挨拶が飛び交い、陸よりも先に一日が回り出す。


■ 昼 ― 汗と潮の味

昼、川面に陽が反射する。
櫓を握る手は豆だらけ。
肩の筋が張り、腰が悲鳴を上げても、船を止めることはない。

「お客さん、ここで降りなせぇ」
船を岸に寄せ、桟橋に軽くぶつける。
揺れが静まるまで見送り、客の背中に手を合わせる。

桟橋の隅で握り飯を頬張りながら、船頭は空を見上げる。
鳥が飛び、雲が流れる。
それを見て、風の向きを知る。
彼にとって空は、明日の時刻表だった。


■ 夕刻 ― 風が止むとき

日が傾く。
水面の色が金から青に変わる。
舟はゆっくりと帰りの流れに乗る。

橋の下をくぐるたび、子どもたちが手を振る。
「おっちゃん、今度乗せて!」
「金が貯まったらな!」
笑い声が水面を滑って消える。

風が止む。
それでも舟は進む。
川が導く限り、船頭の一日は終わらない。


■ 夜 ― 船宿の灯

夜の帳が下りると、船宿の灯が点く。
舟を繋ぎ、櫓を拭き、桶で水を打つ。
手のひらの皮はすでに硬く、櫓の柄の形が刻まれている。

湯屋で汗を流し、安酒を一口。
「今日も川は機嫌がよかったな」
仲間たちが頷き合う。
水を恐れ、水を信じ、水に生かされる――
それが船頭の宿命だった。


■ ナレーション(締め)

江戸の町は、水でできていた。
橋も、舟も、人の声も、みな川を渡り、風に運ばれていった。

船頭は、江戸を動かす見えない手。
彼らの櫓の音が止むとき、町の心臓もまた、静かに鼓動を止める。

――川が道で、風が友だった。
江戸の船頭は、今日も水の上で生きている。

次回は「江戸・左官の一日|土を塗り、壁に息を吹き込む」です。

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参考・参照リンク(江戸時代)

※本カテゴリの記事は上記の史料・展示情報を参考に再構成しています。


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