火に焼かれ、水に晒され、それでもまた立ち上がる町。
その命をもう一度形にするのが、左官(さかん)だった。
■ 夜明け ― 土と水の声を聴く
夜が明ける前、左官の小屋ではもう音がする。
「どろ、起きろ」
桶に入れた土に水を足し、手でこねる。
こねて、こねて、こねて、
粘りと艶が出るまで、土と会話をする。
「今日の土は湿り気がちょうどいい。風が味方してる」
掌に伝わるその感触が、
もうその日の出来を教えてくれる。
火消の後を追い、大工のあとに立つ。
焼けた町の壁を塗り替えるその手が、
江戸の再生の最前線だった。
■ 午前 ― 壁と対話する時間
朝日が差すと、仕事が始まる。
左官は黙って鏝(こて)を走らせる。
土の呼吸と、自分の呼吸を合わせるように。
「焦ると割れる。土は人間と一緒だ」
弟子にそう言いながら、
鏝をすっと滑らせる。
まるで筆で描くように、壁に生命を与える。
艶が出ると、そこに光が生まれる。
壁が町の光を反射し始める。
江戸の白壁は、左官たちの無言の署名だった。
■ 昼 ― 土と汗の味
昼休み、屋根の下の日陰で飯を食う。
握り飯と味噌汁。
指先にまだ湿った土がついている。
「この手で食う飯が一番うまい」
仲間が笑う。
火事のあと、家を再建するたびに、
町の人が茶と団子を差し入れてくれる。
「おまえらがいるから、江戸は立つんだ」
それが最高のご褒美だった。
■ 午後 ― 壁の中に“風”を塗る
午後、風が強くなる。
乾きが早すぎると壁が割れる。
「風をなだめろ」
棟梁の声が飛ぶ。
水を少し加え、鏝で押さえる。
音でわかる。
いい土は、鏝に吸いつく音を立てる。
ぴたり、ぴたり――まるで心臓の鼓動のように。
壁は無口だ。
だが、塗る者の気持ちをすべて吸い取る。
だから左官の壁には、人の心の跡が残るのだ。
■ 夕刻 ― 光る壁、沈む日
日が暮れる頃、壁の表面が夕陽を映す。
赤く染まった土が、ゆっくりと呼吸しているようだ。
弟子が手を止め、ぼそりと呟く。
「親方、壁が笑ってるみたいだ」
棟梁はにやりと笑う。
「そりゃあ、おまえの心が映ってるんだ」
道具を洗い、鏝を布で拭く。
長年の仕事で、柄の木は手の形にすり減っている。
その感触が、今日も変わらぬ相棒の証。
■ 夜 ― 土の静けさの中で
夜、長屋に戻ると、
手のひらにひびが入っている。
風呂の湯がしみるたびに、
「今日も働いたな」と思う。
窓の外では虫の声。
昼に塗った壁の前を、通りかかった人がふと立ち止まり、
「きれいだねぇ」と呟く。
その一言を、左官は聞かなくてもわかる。
壁の奥の土が、ちゃんと応えているから。
■ ナレーション(締め)
左官の鏝は筆のようであり、祈りのようでもあった。
火に焼かれても、土を塗り直せば町は甦る。彼らが塗ったのは、ただの壁ではない。
家族の笑い、町の誇り、人の希望。――土を塗り、壁に息を吹き込む。
それが、江戸の左官の仕事であり、生き方だった。
次回は「江戸・傘張り職人の一日|雨を待つ者たち」です。
参考・参照リンク(江戸時代)
※本カテゴリの記事は上記の史料・展示情報を参考に再構成しています。
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