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城下町─「籠もるための城」から、「支配と交流の都市」へ

戦乱時の拠点だった城が、どうして町になって生活の場になっていった?

うん、常設の都市=城下町へと進化していく流れを、戦国中期から江戸初期までの変遷として整理して説明していこう。


最初の城は“戦場の拠点”

南北朝〜室町初期の「城」は、
・山城(やまじろ)や砦(とりで)型が中心
・戦が終われば解体され、耕作地や村に戻る
という臨時の軍事施設でした。

代表例:

  • 吉野城(南北朝期)
  • 鬼ノ城(古代山城)
    いずれも恒久的な政治拠点ではなく、「籠もって守るための場所」でした。

戦国時代における“恒久拠点化”のはじまり

戦国中期になると、戦が常態化。
戦の合間に領国を経営する必要が出てきたため、
武将たちは「一時的な砦」から「行政と軍事の両拠点」へと城を作り替えていきます。

きっかけ:戦国大名の台頭

戦国大名は、自分の領地を守るために「城」を拠点に支配網を構築。
・周囲に家臣の屋敷を並べ(武家屋敷)
・商人や職人を呼び寄せ(城下集住政策)
・町人に特権を与えて市場を開く

この流れが「城下町」形成の原型となります。

代表例:

  • 甲府(武田信玄)=「信玄堤」などインフラも整備
  • 岡崎(徳川家康)=三河支配の行政中枢
  • 一乗谷(朝倉氏)=庭園・寺社・町家が並ぶ、戦国期屈指の文化都市

“平山城”と“平城”への移行(常設都市化)

それまでは「山城」が主流でしたが、
戦国後期になると、商業・交通の利便性を求めて、
次第に平地に城を築くようになります。

平山城:自然の高台+平地の町を併設

例)小田原城(北条氏)、姫路城(黒田→池田氏)
→ 防御性と利便性のバランスを重視

平城:政治と経済の中心に

例)安土城(織田信長)・大阪城(豊臣秀吉)
→ 山にこもる防御ではなく、「見せる支配」の象徴へ。
→ 天下統一に向けた政治の舞台として、壮大な都市計画が行われた。


安土桃山〜江戸初期:都市としての完成

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人によって、
「城下町」は戦の拠点から政治都市へと完全に変貌します。

信長の安土城下町(1579年)

  • 城の周囲に商人・職人を集め、楽市楽座で自由取引を許可
  • 武士・町人・宗教勢力を階層的に配置
    → 「封建秩序の模型都市」とも言われる

秀吉の大坂城・聚楽第

  • 天下人の首都構想。経済・外交・軍事が集約。
  • 河川を利用した水運整備、堀川・大坂堀江の建設

● 家康の江戸城下町

  • 武家諸法度による支配秩序を構築
  • 藩ごとの「藩邸」配置(江戸屋敷)
  • 武士・町人・職人の住み分け
    「封建国家の首都=計画都市」としての完成形

城下町の空間構造

典型的な城下町は次のような構造でできていました。

スクロールできます
住民構成特徴
中心部城・本丸・二の丸政治・軍事の中枢
内郭武家屋敷家臣団が配置(主従関係の可視化)
外郭町人地(商人・職人)市場・商家・町割り
外縁寺社・農村防御兼信仰・生活圏

→ 社会階層がそのまま地図に現れる、いわば「地理に組み込まれた身分制度」。


江戸時代の全国的展開

関ヶ原の戦い以後、全国の諸大名が藩政拠点として城を中心に藩都を形成。
幕府が「一国一城令(1615)」を出したことで、
城は政治・行政の中心として固定化し、城下町も安定的に発展しました。

例:

  • 加賀金沢(前田家)
  • 薩摩鹿児島(島津家)
  • 長州萩(毛利家)

どの城下町も、城の位置を基点に放射状に道路と町割りが整えられ、
政治・経済・文化の中核として機能しました。


【まとめ】

戦国期の「戦う城」は、

  1. 一時的な砦(山城)から
  2. 行政・経済を統べる拠点(平山城)へ
  3. 国家運営の中心都市(平城・城下町)へ

と進化していきました。

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