杯の中の月
戦が終わり、夜風に虫の音が混じる頃、村のはずれで火が灯る。誰かが米を蒸し、誰かが唄を口ずさむ。最初の一杯は沈黙。二杯目で笑いが生まれ、三杯目で、涙がこぼれる。酒とは、言葉の前にある会話だった。人が本音を語るために、心の鎧をやわらかくするために、昔の人は”酔う”という知恵を持っていた。
酒がつくる「間」と「場」
酒は”飲む”ものではなく”交わす”もの
古代の神事でも、宴でも、酒は常に”人と人をつなぐ媒介”だった。「献杯」という言葉があるように、一人で飲むものではなかった。村の寄り合いでは、「一献回せ」「次はおぬし」と盃が巡る。それは単なるマナーではなく、心のリレーだった。酒を通して、人は互いに「許す」。だから、争いのあとに酒盛りを開く風習があった。血よりも、米の香りの方が早く人を和ませた 。
唄は、沈黙の翻訳
酒の席に唄があるのは必然だった。唄は”感情を整理する手段”であり、”語られなかった言葉の代わり”でもあった。盆唄、仕事唄、演歌、軍歌――どんな時代にも「酒と唄」はセットで登場する。唄うことで悲しみを共有し、唄うことで沈黙を壊す。それが、共同体のセラピーだった。
酒の種類と文化の色
- 清酒(日本酒):祈りと感謝の象徴。神酒として神事に使われた。
- 濁酒(どぶろく):村の共同釜で仕込まれた”生活の酒”。
- 焼酎:戦国の野戦や南方交易から広まった実用の酒。
- 梅酒・薬酒:健康と養生の知恵。
どの酒も、飲むためだけでなく、「暮らしの延長」にあった。つまり、酒は生活の”潤滑油”ではなく、社会を循環させる液体だった 。
酒場という小さな社会
江戸には、立ち飲み屋「煮売屋(にうりや)」があった。一杯の酒と煮魚で、一日の疲れを洗い流す。見ず知らずの者同士が盃を交わし、気づけば明日の話をしている。そこでは地位も身分も関係ない。「今を生きる」ことが共有されるだけ。この空間の延長線上に、現代の居酒屋やバーがある。酒場とは、人間の民主主義の原型だった 。
酔いの哲学
酔うことは、逃げることではなかった。理性を脱ぎ捨て、素直に戻るための”儀式”。つまり、「無防備な対話」の場を作る行為。酔いとは、心の角を丸くする時間。酔うことは、忘れることではなく、和(なご)むことだった。だから、本当に酔う人ほど、よく笑い、よく語り、よく泣いた。それが、人の強さだった 。
酔って語る、人のまま
酒を飲むということは、「正しさ」ではなく「人らしさ」を取り戻すこと。唄を歌うということは、「主張」ではなく「共鳴」を探すこと。現代でも、カウンターの隅で語られる夢や愚痴は、江戸の夜と何も変わらない。酔うことは、間違いじゃない。酔わずに生きることのほうが、時に危うい。
なりさん酔いながら
人の心を 思い出す

