晩成社と帯広開拓の真実|静岡から来た理想主義者たちの冬の暮らし

晩成社の依田勉三のイラスト
なりさん

先日、帯広百年記念館ということろに行った。そこで晩成社とい帯広を開拓した人々の資料を読んだんですが、当時の暖房器具や冬の過ごし方など本州とは全く違ってたはずやんね?そのときの暮らし向きってどんなもんやったの?

なるほど、実際に冬の北海道を体験した人なら、気になるところですよね。

晩成社(ばんせいしゃ)の帯広開拓は、明治13年(1880)に静岡県掛川の士族・依田勉三たちが移住して始めた事業ですね。

彼らが直面した「北海道の冬の現実」は、想像を絶するものでした。以下、当時の生活をいくつかの側面から整理してみます。


1. 住宅と暖房

静岡から来た彼らは最初、慣れた木造の家を建てようとしましたが、凍結・寒風・雪重に耐えられず、次々と倒壊。

そこで次第に、厚く土を盛った「土蔵型」や「掘立て式」の小屋が主流になります。

室内では囲炉裏のような暖房は使えず、石や土を熱して放熱させる「石囲いの火床」や、後には鉄製のストーブが導入されました。

ただし燃料の確保が難しく、薪は雪に埋まった倒木を掘り出して乾かすという重労働。燃料の少ない年は、馬糞や枯れ草を乾燥させて燃やすこともありました。


2. 食料と保存

農業が軌道に乗るまでの数年は、麦粥やジャガイモ、干し魚が主食。

冬の備蓄には、味噌・干し肉・漬物が重要でした。
味噌は静岡から持参したものを大切に使い、のちに自家製へ。

冬は冷凍庫いらずで保存がききましたが、凍りすぎて包丁が通らないという別の問題が発生。

毎日、食材を溶かすために囲炉裏の湯で解凍する必要がありました。


3. 衣服と防寒

静岡の温暖な気候に慣れた晩成社の人々は、最初の冬に耳や手を凍傷で失う人も出たといわれます。

その経験から、毛皮(特に鹿皮や馬皮)を使った防寒着を現地で作るようになりました。

また、靴の中に藁を詰めることで保温する工夫も一般的でした。

のちにはアイヌから防寒具の知恵を学び、アットゥシ(樹皮衣)や靴下二重履きなども取り入れています。


4. 冬の生活と心の支え

気温が−30度を下回る帯広の冬では、外仕事はほとんどできず、馬の世話・道具の修理・味噌づくり・読書・日記が主な日課。

依田勉三の日記には「風雪の中にただ祈るのみ」という記述があり、宗教的信念や仲間の絆がなければ心が折れる環境だったことが伝わります。

冬の夜は、灯油ランプ一つで過ごす静寂の時間
吹雪の音が一晩中鳴り響き、家が軋む音が祈りのように感じられたそうです。


5. 文化的な転換

晩成社は単なる開拓団ではなく、理想社会の実験場でもありました。

共同生活・共同農業・共同販売という理念のもとで、寒さと闘いながらも「人間らしい社会」を築こうとした。

結果として事業は失敗に終わりましたが、この経験が帯広=協働の街という精神を育て、のちの十勝平野の開拓者たちの指針になったといわれます。

筆者が組織論として『晩成社にみる理想の組織論|氷点下の帯広で試された「理念とぬくもり』について書いています。


参考・参照リンク(北海道開拓史)

※本カテゴリの記事は上記の史料・展示情報を参考に再構成しています。

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