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城下町の町割り|なぜ武士と町人は住むエリアが分けられてたのか

「城下町の観光に行ったとき、『武士と町人は住むエリアが決まってた』って書いてあったけど、いつから、なんでそんな風に分けられたん?」

これ、「町割り」という都市計画の話なんよ。 順を追って見ていこう。

町割りとは何か

「町割り」とは、城下町を機能的・階層的に配置するための都市計画のこと。
道・堀・川・地形などを使って、身分・職能・支配関係を明確に分けるのが特徴です。

戦国時代には“自然発生的”な町も多かったが、江戸初期以降は幕府や藩が意図的に区画し、統治の地図=社会秩序の設計図となりました。

城を中心にした「同心円構造」

ほとんどの城下町は、次のような放射同心円構造を持ちます。

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住民層位置意味
① 本丸・二の丸大名・上級家臣城の中心政治と軍事の核心
② 武家地中〜下級武士城の周囲支配秩序の可視化
③ 町人地商人・職人外郭部経済と生活の中心
④ 寺社地寺・神社外縁部防衛・防火・信仰
⑤ 百姓地農民周囲の村落城下町を支える生産基盤

つまり、「地理=身分秩序」そのものだったのです。

空間が“身分制度”を具現化した

武家地(ぶけち)

武士階層の居住区で、家臣団の序列に応じて距離が変わります。

  • 家老・重臣:城のすぐ近く
  • 中堅・足軽:少し離れた区域
  • 下級武士:町人地の外縁近く

武士の屋敷は“上から順に内側へ”と並び、大名の支配秩序を地図で表す構造になっていました。

町人地(ちょうにんち)

商人・職人が住む区画。通りごとに職種が集まりました。

  • 魚町(魚商人)
  • 紺屋町(染物屋)
  • 鍛冶町(鍛冶屋)
    → こうした地名が今も残るのは、職能別の町割りの名残です。

また町人には「町年寄」「五人組」などの自治組織があり、自分たちで秩序を保つことが求められました。

寺社地(じしゃち)

外郭や河岸沿いなどに配置され、防火帯や防衛線の役割も果たしました。
寺院は同時に「学校(寺子屋)」や「避難場所」として機能し、精神的にも城下町の基盤でした。


街道と区画のデザイン:統治の装置

町割りは、軍事・交通・防災などの実用と統治意図を兼ねていました。

軍事的デザイン

  • 枡形(ますがた)構造:道を直角に折り曲げて、敵が一気に進入できないようにする。
  • 迷路型の道筋:見通しを悪くし、攻め込まれても防ぎやすく。
  • 堀・土塁・川:防御線として配置。

統治的デザイン

  • 武士が町人を上から見下ろす立地(視覚的支配)
  • 大通りを通じて大名行列が進める構造(権威の演出)
  • 城門や橋の位置に番所(関所)を設置し、出入りを管理

城下町は「秩序を演出する舞台装置」でもありました。

社会秩序の地理的可視化

このような町割りは、単なる都市計画ではなく、
身分秩序そのものを空間に翻訳したものでした。

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身分居住範囲象徴する価値
大名本丸絶対的支配
家臣武家地忠義と秩序
町人町人地経済と勤勉
百姓農村地生産と従属
被差別民城下外縁・河原支配から外れた存在

→ つまり、「どこに住むか」が「誰であるか」を示す社会。

江戸・金沢・萩などに見る典型例

江戸

  • 武家地が城下の約70%を占める巨大な権力空間
  • 大名屋敷が放射状に配置され、町人地はその谷間に広がる
  • 日本橋を中心に経済・物流が集約(五街道の起点)

金沢

  • 城から見下ろすように武家屋敷が段状に配置
  • 商人町は犀川沿いに広がり、寺町・忍者寺など防衛・宗教複合地帯を形成

  • 城・武家地・町人地が直線的に並ぶ「城下町の教科書」的構造
  • 武士と町人の生活圏が近く、藩校明倫館を中心に教育都市として発展

近世の城下町が残したもの

明治維新で藩は廃止されても、町割りの骨格はそのまま残り、多くの都市で行政区・町名・通りの形に受け継がれています。

  • 大手町・本町・魚町・鍛冶町などの地名
  • 寺町通・武家屋敷跡・町筋の碁盤目構造
    → いまの地図の中に「封建社会の痕跡」が息づいています。

まとめ

城下町は、

  • 経済の拠点であり、
  • 政治の象徴であり、
  • そして“地図上に描かれた社会階層”でもあった。

町割りは、支配秩序を「建築と地形」で固定化した日本的統治モデルだったのです。

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