「籠城戦の現実|耐える戦いではなく、生き延びるための生活戦争」という記事を読んだんやけど、その記事に書いてあった「鳥取城」「上田城」「熊本城」など、実際の籠城戦ごとに具体的な生活描写・戦術の違いを教えてほしい。
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籠城戦の現実|「耐える戦い」ではなく、「生き延びるための生活戦争」
籠城戦って、城内では、どんな生活してたん?飯とはトイレは? 多くの人は「城で敵を待つ」イメージを持つ。 でもホンマは、外の敵よりも内の飢えと病との戦いやったと...
なるほど。では、具体的な籠城戦の「実例」をもとに、城内の暮らしと戦術をよりリアルに描いていこう。ここでは質問にあった代表的な三例を取り上げるで。
鳥取城(1581年)|羽柴秀吉の兵糧攻めの極限地獄
背景
織田信長の命で秀吉が中国攻めを行い、因幡の鳥取城(守将:吉川経家)が包囲される。秀吉は戦わずして勝つため、徹底的に兵糧を断つ戦術を取った。
食料と生存
- 城下町の食料を事前に買い占めて枯渇させるという兵糧戦の原型を実行。
- 城内では最初、米→粥→草→皮→馬→犬→鼠→人の順に食糧が尽きていく。
- 『信長公記』には「親子・夫婦が互いに食い合った」との記録。
- 最後には餓死者が溢れ、城中に腐臭と病気が蔓延。
精神状態と秩序
- 武士の間でも「命より名誉」か「家族を生かす」かの葛藤。
- 吉川経家は降伏を決断し、自刃して家臣の命を救う。
- 城兵約数千人が命を長らえたが、もはや人の形を留めぬ姿で開城。
→ 籠城戦は、武勇よりも補給戦の勝負であることを天下に知らしめた。
上田城(1585年・1600年)|真田昌幸の知恵と共同体の粘り
背景
徳川軍に囲まれたが、真田昌幸は少数兵で二度にわたり籠城。
「地形」と「民の力」を最大限に活かした。
食糧・水の確保
- 千曲川の水を堀に引き込み、飲料水と防御を兼用。
- 周囲の農民が協力して、籠城直前に大量の食糧を運び込む。
- 農村共同体との信頼が、**「生きた補給線」**となった。
戦中の生活
- 城下の民家を焼いて敵の進軍を妨げ、自らの生活を犠牲に守る。
- 兵と民が協力し、弓・鉄砲・石火矢を修繕・再利用。
- 女たちは矢拾い・負傷者の看護・炊事を担当。
- 飢えをしのぐために味噌・干飯・豆粥が主食。
→ 「智略×共同体力」の籠城で、徳川の大軍を二度退けた。
熊本城(1877年/西南戦争)|籠城技術の完成形
(時代は幕末だが、戦国式籠城の集大成として紹介。)
食料と構造
- 加藤清正が築城時から「籠城用の備蓄構造」を想定。
- 石垣の中に貯水池・米蔵・味噌蔵を隠す。
- 約5万人が50日以上籠城しても、食糧が尽きなかった。
衛生と秩序
- 排泄は指定の場所で行い、石灰を撒いて消臭。
- 傷病兵の看護所を設置。
- 城下町住民を城外に避難させたため、人口密度を調整。
- 武士・町人・女中まで役割分担の秩序を保った。
→ 熊本城は、戦国期の籠城経験(特に島原の乱など)を踏まえた「最も理性的な籠城城郭」だった。
【共通するリアルな構図】
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| 要素 | 現実 |
|---|---|
| 食事 | まず干飯・味噌・漬物、次に動物、最後は人間。 |
| 便 | 堀・川に捨て、水質悪化→疫病発生。 |
| 女と子供 | 炊事・看病・物資運搬。子供は泣かせないよう布で口を塞ぐことも。 |
| 怪我と衛生 | 医療は薬草と酒。破傷風や感染症で死亡多発。 |
| 武器 | 敵の矢再利用。火薬節約。夜襲で武器を奪取することも。 |
| 修理 | 破損は夜間修復。板・縄・土嚢で応急処置。 |
| 精神 | 飢え・恐怖・裏切りの連鎖。秩序を保つのは殿の人徳。 |
こうして見ると、籠城戦とは単なる戦闘でなく、一つの町・共同体が「死なない仕組み」を全力で運営する行為だった。
勝者は、戦に強い者ではなく、「崩壊を防げた共同体」だったとも言える。
参考・参照リンク(戦国時代)
※本カテゴリの記事は上記の公的史料・展示情報を参考に再構成しています。







